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ハリー・ポッターのゲーム「ホグワーツ・レガシー」には、さまざまな“欠落”を感じさせられる

最悪だ。タバコを吸わないというのに、この話を始める前からタバコを吸いたい気分になっている。

この記事では新作ゲーム「ホグワーツ・レガシー」について論評することになっているのだが、そのためには「ホグワーツ・レガシー」を巡る騒動について論じておく必要がある。椅子に腰を下ろし、お茶を注ぎ、毛布にくるまり、枕に顔を埋めて(または奈落の底に)叫ぼう。これはわたしたちを大いに疲弊させることになる(あるいは重苦しい話になる)。

ホグワーツ・レガシー」は、大ベストセラーの児童文学『ハリー・ポッター』シリーズと同じ世界を舞台にした三人称視点のアクションRPGだ。念のため補足しておくと、小説『ハリー・ポッター』シリーズ、「魔法ワールド」の設定、そして映画『ハリー・ポッター』シリーズは、すべて作家のJ・K・ローリングによる発案であり、彼女の知的財産だ。

これは重要なことである。なぜならJ・K・ローリングは、常に彼女の作品と、彼女がインスピレーションを与え(そしてライセンスを取得した)作品から、よくも悪くも(最近はほとんど悪い意味で)切り離せない関係にあるからだ。「魔法ワールド」の商標が付いているものは、デイム・J・K・ローリング(コンパニオンズ・オブ・オナー勲章と大英帝国勲章を受賞)がつくり出したものであるという背景を無視して評価することはできない。

ローリングが心に刻んだ傷

J・K・ローリングは著書のなかで、日常を非日常的なものに見せた。彼女は風変わりで孤独な子どもたちが特別だと言われる場所、虐待を生き延びた子どもたちが根本的に不安定なだけではない場所をつくり出した。

 

ところが2019年以降、かつて愛された児童文学作家のJ・K・ローリングは......そう、彼女はいくつかの意見もっていた。わたしのような人間について。そして、わたしのような人間が存在すべきかどうかについて。彼女は遠回しに、トランスジェンダーの人々が本質的に危険で、どこにでもいる「本物の」女性への脅威であるというようなことまで言い出したのだ。

子どものころ、J・K・ローリングがペンで書き連ねた言葉の一つひとつが、わたしの世界に魔法をかけた。ところが、いまでは彼女が発する言葉の一つひとつはわたしの心を傷つけるだけだ。

 

クィアの子どもたちが成長過程で耳にする同性愛嫌悪やトランスジェンダー嫌悪の表現は、すべて長年にわたって付きまとう“声”となる。親戚や友人、親が自分たちについてひどいことを言っているのを耳にする。わたしたちの多くは、こうした声と日々闘っている。

その声のひとつが、自分を受け入れることを教えてくれた作家であり、自分や自分のような子どもたちを本当に理解してくれていると思っていた人であるJ・K・ローリングから発せられると、正直なところ彼女には決して理解してほしくないような痛みを感じる。わたしは誰にもそのような痛みを感じてほしくない。

わたしはJ・K・ローリングを憎んではいない。正直、憎んでしまえば、もっと楽になれるだろう。心のどこかに、何があっても彼女を愛する子どもがいる。その子には、自分を傷つけた人を愛した経験がたくさんある。その子は決して理由を尋ねず、ただ自分が何を間違えたのか、どうすればそれを直せるのかを知りたがっている。

その子に、直せるものは何も残っていないと伝えることは難しい。そして、もう戻れない場所があること、ホグワーツのような場所には戻れないことを伝えるのも難しい。

ホグワーツ・レガシー」を避けた理由

ハリー・ポッター』シリーズの第1作が出版されたときのことを覚えている。表紙のイラストのひょろっとした男の子。学校で開催されたブックフェア。当時、その本はよくある章立ての児童書のひとつで、児童向け小説シリーズの『なぞのうさぎバニキュラ』や『グースバンプス』のような本と一緒に棚に並んでいた。

 

正直に言おう。自分は『はてしない物語』のように、その本の世界に浸ることはなかった。表紙を開いて、魔法とミステリーの世界へいざなわれたわけではなかった。気に入りはしたが、それだけだったのだ。その世界に包み込まれ、引き込まれたのは、第3巻の『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』を読んだときである。

初めて危険を感じた作品だった。自分の知っているキャラクターたちが、大人顔負けの危険に立ち向かう姿を見て、自分が「理解されている」と感じた。ハリーに自身のつらい子ども時代を重ねた。大人の世界への苛立ちや、自分でもよくわからない怒りが胸の奥で煮えくり返るのを、ハリーと共有した。

ロンがお下がりを着て学校に通うこと、子どもが決して考えるべきではないようなお金の心配をすること、そして赤毛をからかわれることが、どのようなことかを知っていた。ハーマイオニーとは、容赦ない、そしてしばしば迷惑なほど自己主張の強い善悪の感覚を共有し、それが彼女や自分をしばしばトラブルに巻き込むということを理解した。『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』から、その世界の深みにはまったのである。

 

ホグワーツ・レガシー」が最初に発表されたとき、その発表内容を目にすることを避けた。ゲームプレイを見たくなかったし、予告編を見て感動したくなかったのだ。

ハリー・ポッターの小説の魔法を捉えたゲームを目にしたら、心臓が胸から飛び出しそうなほどドキドキしてしまうかもしれない。自分の考えと矛盾した感情を抱いてしまうことを恐れて、疫病であるかのように避けてしまった。

映画の豪華なビジュアルが最新のゲーム機器で再現され、最上位規格のHDR対応4Kモニターに映し出される様子を見るのが怖かった。12歳の自分に「ホグワーツ・レガシー」をプレイできないことを伝え、その理由を説明しなければならないことを恐れた。だから「ホグワーツ・レガシー」のコードを手に入れたとき、身構えてしまったのである。

最初は気づけない大きな欠落

ここで、つまらぬあら探しに多くの時間を費やすことになると思った。

ホグワーツ・レガシー」がいかに原作から逸脱しているか、いかに見た目や雰囲気が古くさく、いかにすべてのキャラクターがたった1行のセリフを発するか。生き物をまねた不気味でぎくしゃくしたパフォーマンスをするために、誰かがやってきて25セントを入れるまで待っている「チャッキーチーズ」(キッズ向けのゲームセンター&ピザレストランとして有名な店舗チェーン)のアニマトロニクス・ロボットのように感じられるか──といった、あらゆる不満を説明していくことになると思った。しかし、あら探しをする必要はなく、明らかにそれより大きな問題だらけだったのである。

ホグワーツ・レガシー」のホグワーツで過ごす時間が長くなればなるほど、明らかな欠落を感じるようになった。間違いなく何かが欠けている。

それは精彩を欠いたアートディレクションのせいかもしれないし、わたしたちが知っているキャラクターを独自ブランド化したような一面的なキャラクターのせいかもしれない。象徴的なジョン・ウィリアムズの音楽が明らかに欠如しているせいかもしれないと思った。しかし、もっと大きな欠落がある。

このゲームの心臓部分は空っぽだ。最初はそれに気づくことができない。その境界を手探りで入念に探し、そこにあるものを探すことをやめて、ないものに気づき始める必要がある。

 

このゲームには場所の感覚がない。このゲームの世界には活気がない。キャラクターデザイン設定とフェイシャルアニメーションは存在しているのだが、どういうわけか欠落している。キャラクターはアニメーション化されているのだが、明らかに生きている感じがしない。

 

ストーリーは反ユダヤ主義に根ざしている(世界的な「陰謀団」が奴隷制を廃止しようとしているが、奴隷が奴隷であることを好んでいるのでその設定はまずい)上に、説得力すら感じられない。答えのない疑問と説明のつかない動機が点在し、不明瞭な感じだ。

ちなみに登場人物は、しばしば自分の動機を率直に語るのだが、信憑性がなく、特に首尾一貫しているとも思えない。「ホグワーツ」という設定だが、ホグワーツという感じもしない。

ローリング自身には賛否両論あるにせよ、このゲームはファンの熱烈なノスタルジーを刺激するためにつくられたようなもので、実際にプレイする価値のあるゲームにしようという配慮はまったく感じられない。

この理由だけでも、「ホグワーツ・レガシー」の購入を勧めるのは気がとがめる。そして、このゲームが誰を助け、誰を傷つけるかということを考えると、害を及ぼすことが目的でない限り、間違いなくお金を費やす価値はない。

とはいえ、これはおなじみの問題だ。「魔法ワールド」の映画シリーズ最新作にも、同じ問題が見受けられる。

映画『ハリー・ポッター』シリーズの新作数本はいい作品ではない。道徳的に悪いだけでなく、質的にも悪い。見ていて楽しくないのだ。スペクタクルはあるが、すべてが単調で、何だかよくわからない感じがする。

よく観ると、新作映画の公開が進むにつれ、品質が着実に低下していることがわかる。知的財産の所有者が運営を立て直そうとしているにもかかわらず、所有者によって毒されてしまったフランチャイズから残った価値の痕跡を見つけて絞り出そうとしているのだ。

ローリングがより直接的に支配できるようになり、彼女に対してダメ出しや修正を出す人が少なくなったからだとする評価もある。ジョージ・ルーカスと同じ問題だ。しかし、「ホグワーツ・レガシー」では、それが問題ではないような気がする。

中心にぽっかりと開いた穴

ローリングが偏見を公表する程度と「魔法ワールド」作品の単調さ、そして心臓部分の欠落の程度との間には、直接的な相関関係がある。これは偶然とは思えない。LGBTQIA+の人々とその真の支持者は世界で最も優れた創造力の持ち主だが、『ハリー・ポッター』シリーズの新作映画や「ホグワーツ・レガシー」は、ほとんどこれらの人々抜きでつくられたからだと思う。

 

ゲーム業界は、多くの人が思っているよりずっと多くのクィアの人々がかかわっている。あなたがお気に入りのゲームについて知っていること、好きなことはすべて、クィアの人々の手によってつくられたものだ。

監督や製作総指揮だけではない。お気に入りのゲームに命を吹き込むコンセプトアーティスト、サウンドデザイナー、エンジニア、テクニカルアーティスト、作曲家、ミュージシャン、作家、テスター、プロデューサーなど、世界で最高のゲームのつくり手にはクィアがいるということだ。わたしたちは優れたゲームの活力であり、心臓部であり、魔法なのである。

ホグワーツ・レガシー」の中心にぽっかりと開いた穴に、ゲーム開発分野におけるクィアの人々とその支持者の静かな連帯が見てとれる。

 

仕事の依頼が来ても、ただ断った人たち。開発元のポートキー・ゲームズからのメールに返信しなかった人たち。ハリー・ポッターのゲームに携わることはトランスジェンダー・コミュニティに有害であることを同僚に丁寧に伝えた人たち。そして、それを聞いて「わかった、教えてくれてありがとう」と言った人たち。簡単に手に入る報酬よりも、自分のモラルや愛する人を優先させた人たち──。

おそらく、そういう人たちの名前を知ることはないだろう。しかし、あなたは自分が誰であるかを知っている。わたしはあなたの存在に気づいているし、言葉で言い表せないほどあなたに感謝している。

ホグワーツハリー・ポッターに関する本を簡単に閉じられるようにしてくれて、ありがとう。わたしたちがいなければ、その魔法は消え、もう二度と戻ってこない。なぜなら、わたしたちなしの魔法ワールドは、その生みの親と同じくらい心ないものだから。

◎「WIRED」な点
おかげで魔法ワールドの世界に別れを告げることができた。

△「TIRED」な点
反ユダヤ主義的なお決まりの表現に根ざしたストーリー。ゲームプレイは古くさく感じる。グラフィックは数世代遅れているように感じる。登場キャラクターは全員が一面的。確立された世界設定を忠実に守っていない。どのキャラクターも、わたしたちが知っていて愛しているキャラクターのまがいものバージョンのように感じられる。場所の感覚がない。魔法もなければ、心もない。