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ヒトの意識をコンピュータへ移植することはできるのか?

意識を宿す脳は、すこしばかり手のこんだ電気回路にすぎない。であれば、脳の電気回路としての振る舞いを機械に再現することで、そこにも意識が宿るに違いない。多くの神経科学者はそう考えている。
残念ながら現代の科学では人の脳の解析はさほど進んではいないようだ。

問題は、ヒトの意識のコンピュータへの移植、いわゆる「意識のアップロード」である。仮にそれがかなえば、ヒトが仮想現実のなかで生き続けることも、アバターをとおして現世に舞い降りることも可能になる。どちらを選択しても、生体要素が一切排除されるため、死が強制されることもない。
はたして意識のアップロードは原理的に可能か? その技術的目処は立っているのか? まずは、その意味合いと存在意義に迫る連載第一弾をお届けしたい。

SFの世界が科学に!

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自らを被検体に、意識のアップロードをくり返す開発エンジニアのポール。アップロードのたびに彼の意識は二分され、ひとつは身体にのこり、もうひとつはコンピュータが担う仮想現実に召喚される。数えること五度目の実験、幸運にも、過去四回とも身体の側に残りつづけた主人公のポールだったが……。

肌触りのよいシーツの上で夢からさめると、朝日が窓から差し込んでいる。一体、いつどうやって眠りについたのか。底知れぬ不安が頭をよぎる。ゆっくりと、しかしやがて、ある想いに行き着く。ついに仮想現実に囚われ、実験用モルモットに成り果てたのだと。

覚悟はできていたつもりだったが、まったく甘かった。彼は愕然とし、絶望し、かつて同様に囚われた分身たちが皆そうしてきたように、自殺レバーへと向かう。それは、仮想世界において装備が義務付けられているものだ。だが、そのレバーを引いた刹那、それは根元から折れてしまう。外界に居座るもうひとりのポールを呼び出し問いただすと、「次々と自殺されてしまっては実験にならない」と、彼がプログラムを書き換え、レバーを無効にしたことが告げられる……。

怒涛の展開で幕をあけるグレッグ・イーガンSF小説順列都市』が世に出てから早十八年、ようやく科学の世界でも意識のアップロードが語られるようになった。

仮に意識のアップロードが現実のものになったら、あなたはアップロードされたいと思うだろうか? もちろん、ポールのような人柱としてではなく、お客さんとして。

意識のアップロードを望むか?

私がこの問いをあちこちで訊いてまわった感覚からすると、アップロードを望むのはごく一部の人たちに限られる。十人に一人もいればよい方だろうか。

当然のことながら、意識の解明と、その副産物としての意識のアップロードを研究テーマとする私はそれを望んでいる。大方のみなさんは、なんで? と疑問に思うかもしれない。でも、そんなみなさんに問い返したい。

死は怖くないですか? 今、この記事を読み、思考をめぐらしているあなたが、金輪際いなくなってしまうことに根源的な恐怖をおぼえませんか? 思春期の頃まで感じていた怖れを理性で抑え込んでいるだけではありませんか? 死は万人に訪れ、どうにも抗えないもの。遠い未来の話で、今から悩んでも仕方のないものだと。

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逆の視点に立つなら、アップロードを望むごく一握りの人々は、理性による抑え込みに失敗した人たちなのかもしれない。想い出話につきあわせて恐縮だが、中学二年のある秋の日の情景が、鮮やかな肌感覚とともによみがえる。放課後の陸上部の練習の帰り、当時住んでいた団地の一角にあった「てんとう虫公園」のブランコに揺られながら、死について友人と語り合った。話し始めた時点ですでにあたりは暗く、ブランコの鎖が手のひらに冷たく感じられたが、二人で夢中になって話し込み、気がついたときには身も心も、自慢の美尻も冷え切っていた。

死は怖くないか?

その八年後、高一以来の念願がようやく叶い、研究者の卵としての日々を謳歌していた修士一年の春、一泊の研究室旅行にでかけた。そして、その夜、宴会の席で同期二人を相手に「死にたくない論」を展開した。

「死への恐怖は、必ずしも、苦しみを伴う死のプロセスに対して向けられたものではない。存在から非存在への断絶の恐怖である。一方で、死んでしまえば何も感じない。よって、ここでとりあげる恐怖とは、こうして存在している自身が、死を境に、きれいさっぱり存在しなくなってしまうことに対する、あくまで存在の側が抱く感覚である」云々。酒のたすけも借り、明け方まで話は続いたが、完全な空回りに終わった。二十歳を超えてまだそんな話をしているのかと揶揄されたりもした。その後登場した言葉を拝借するなら、中二病ではないか、と。

実は、この話には後日談がある。この秋口に学科の同窓会があり、そのうちの一人と何十年かぶりの再会をはたした。私が話をふると、彼はその長い夜のことをよく覚えていた。それだけでなく、その内容が頭にこびりつき、いつの頃からか、死の恐怖を実感するようになったという。人生の折り返し地点を疾うに過ぎ、死=非存在がリアルなものとして迫ってきたらしい。

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私とは流派がことなるが、生身の体で不老長寿を目指すハーバード大学のデビッド・シンクレア教授は、著書『ライフスパン―老いなき世界』のなかで、まさにこの観点から、死を説いている。医者として数え切れないほどの患者を看取ってきた彼は言う。死は決して生易しいものではない。若く、健康体で、死がまだ地平線のはるか彼方にあった時分の感覚はまったく当てにならない。死が目前に迫ると、患者の多くは死の恐怖に苛まれる。それまで封じ込んできたものが一気に吹き出す、と。

さきほど、アップロードを望まないと答えたあなたも、将来、宗旨変えしないと言い切れるだろうか。死の床にあったチャールズ・ダーウィンが、キリスト教に改宗し、進化論を説いたことを懺悔したと伝えられるように(※諸説あり)。

ゲーム・コンティニュー

 ましてや、ここで前提としている時代は、意識のアップロードが当たり前のものになったそう遠くはないはずの未来だ。お隣りの山田さんも、斜向いの鈴木さんも、デジタル仮想世界のなかで第二の人生を送っている。週末には対面センターで、のこる家族と想い出話に花を咲かせたりもする。そんななか、あなただけが「ゲーム・オーバー」を選択することなどできようか。

なにも、永遠に生きろと言っているわけではない。「ゲーム・コンティニュー」くらいにライトに考えてもよい。一旦は望まない死を回避する。もし、辛い境遇にあったなら、それらすべてが払拭された仮想世界が待っている。

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正直なところ、何万年と生き続けるのは私も想像できない。たとえ、それが理想の仮想世界であったにせよ。ただ、人類の行く末、さらには、人類が新たな種にとって代わられたはるか未来の地球の姿はみてみたい。コンピュータへの意識のアップロードゆえ、計算を休止するだけでスリープモードに入る。それを贅沢に使い、宇宙の終焉にも立ち会ってみたい。生身のコールドスリープであれば、栄養を補給しつつ、体温を下げ、代謝を落とすような大掛かりな装置が必要なところだ。そんなものが長く動作しつづける保証はどこにもない。

宇宙の終わりへの虚無感

宇宙の終焉といえば、「死にたくない派」の急先鋒は、数千億年先とも言われるそれにも恐怖する。先日、三年ぶりに実地開催した夏学期の学部講義「脳神経科学」を聴講してくれたメンバーで、オンラインの質疑兼飲み会をひらいた。お気に入りのラム酒で勢いづいたか、宇宙の終わりに対する虚無感を吐露したところ、なんと半数の参加者が賛同してくれた。会の性格上、濃縮されたメンバーではあったのだが。

宇宙の終わりにはいくつかのシナリオが知られている。その一つ、ビッグクランチでは、ビッグバンと逆の過程を辿り、宇宙をかたちづくる原子のすべてが空間の一箇所に凝縮されていく。最期には、原子の状態を維持することができず、寸分の隙間もない指先ほどの大きさの素粒子の塊となり、灼熱の光に包まれる。

一方、ビッグフリーズでは、宇宙は永遠に膨張しつづけ、原子の空間密度はとどまることなく下がっていく。やがて、宇宙は絶対零度に達し、周囲を照らす恒星も、それを周回する惑星も、その表面に安穏と暮らしていたわれわれも、すべてが雲散霧消し、質量のない光子だけが虚空を飛び交う。

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いずれのシナリオをたどるにせよ、人類がこれまで築き、今後も築いていくであろう如何なるモノも技術も、その記録も含めて無に帰する。個人の消滅とは一味違う、異次元の虚しさを感じてしまう。せめて、われわれの開発した科学技術を他の宇宙文明に引き継ぐことができたなら、もう少し研究にも精が出るのだが。

参上! 不老不死ネィティブ世代

そんな与太話のさなか、不老不死ネィティブとも言える世代の登場にわたしは驚愕した。さきほど賛同してくれた学生のうちの一人が、宇宙の終焉を乗り越えるべく、次世代宇宙へと逃れる計画があることを雄弁に語りだした。別宇宙への抜け穴、いわゆるワームホールをつくりだして時空を跳躍する。人工のバブル宇宙に一時的に退避する。少々気の早い研究者たちが日々頭を捻っているらしい。驚いたのは、当の本人が、意識のアップロードの道に進むべきか、それとも、宇宙の終焉を克服する研究の道に進むべきか悩んでいることだ。あとのことはあとで心配すればよい、まずは意識のアップロードに専念し、宇宙の終わりについてはコンピュータのなかでじっくり考えればよい、と口説いてはみたが、効果のほどはいかばかりか。

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その会には、もうひとり、不老不死ネィティブがいた。自らの不老不死を盤石のものとするべく、意識のアップロードの研究に従事するか、生体凍結保存の研究に従事するか、これまた本気で悩んでいる。後者は、意識のアップロードがわたしたちの目の黒いうちに完成しない可能性を見越しての安全策らしい。いつも教室の前の方に陣取り、真髄をつく質問をしてくる一方で、うすく広く伸ばされた私の講義内容に、いつになったら意識のアップロードの話が始まるのだと、休み時間にはきまってせっついてきた。ようやくその振る舞いに合点がいき、ネィティブ世代の空恐ろしさに身震いするとともに、心の底から頼もしくも感じた。

そんな彼らに比べれば、私はあまちゃんだ。フーテンの寅さんよろしく、神経科学のさまざまな分野を彷徨いつづけた。その果てに意識研究にたどり着き、意識のアップロードの発案に至った。研究者である私と、死にたくない私とは、長らく別人格であった。

意識を断絶なしにアップロードしたい

前置きが長くなった。本題へと話を進めよう。私の提案する意識のアップロードの中身である。世界で唯一、望まぬ死の回避 ―避死とここでは名付けよう― につながるアップロードを体現しうるものだと自負している。超文明の宇宙人にきいても、未来の人類にきいても、おそらくこの方法以外にない。冒頭の問いに対するファイナルアンサーをみなさんが導き出すためにも、そのアップロードの中身を知ることは欠かせないだろう。

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ちなみに、これまで提案されてきた手法は、とてもおすすめできるような代物ではない。まずは、脳を頭蓋から取り出して薄くスライスする。そのスライスを電子顕微鏡で読み取り、脳の三次元配線構造を抽出する。最後に、それを用いて脳のデジタルコピーを構築する。

第一の問題は、三次元配線構造の読み取り精度の限界だ。はたして、個人の脳の動態を十分に再現するのに必要な精度を、遠い将来にでも達成しうるか。多くの科学者は懐疑的である。また、傷口に塩を塗るつもりはないが、百歩譲ってそれが達成できたとしても、第二の、そして、より"致命的"な問題が残る。デジタルに復元されるのは、あくまで、"故人"の脳にすぎない。

「どこでもドア」に喩えよう。ドアから入ったのび太くんを分子スキャンし、その情報をもとに出口側で生体再構成を行う。これらのプロセスが完璧であれば、出ていくのび太くんは、元ののび太くんであることを信じて疑わないだろう。ただ、入り口側の真のオリジナルは、そのときすでに殺処分の憂き目にあっているはずだ。

実のところ、まったく同じ仕掛けをもつ映画がある。わたしの大好きな監督による大好きな作品だ。ただし、ラストでようやく明らかになるSFオチの壮大なネタバレとなるため、タイトルは伏せておく。その映画に巡り会うのを気長に待つか、ネタバレ覚悟で調べるか、それはおまかせしたい。ある種の呪いをかけてしまったようで申し訳ないが、背筋の凍るラストシーンは、たとえ予見できたとしても必見だ。

それはさておき、公平を期すならば、従来の意識のアップロードがまったく無意味とまでは言わない。自身が死んだ後に、自身を語る何者かが生き続けることで、何かしらの慰みにはなるだろう。また、生身の身体であっても、睡眠中、一旦はわれわれの意識は遮断される。それゆえ、脳のデジタルコピーによる仮想世界での覚醒と、朝目覚めた瞬間の覚醒との間に決定的な差はないという、擁護側の言い分もわからないわけではない。

しかしながら、死を逃れたいと願っていた本人が、アップロードの過程において、ごく当たり前の意味において自らの死を迎えることは、覆しようのない事実だ。

なんとか意識の連続性をもって避死を担保しつつ、未来の超技術を必要としない、うまいアップロードの方法はないだろうか。まさに、その切なる願いを叶えるのが私の提案する手法だ。

あまちゃんゆえ、意識のアップロードありきで発想に至ったわけではないが、思いついてしまったのだから仕方がない。